これは、資金200万円から始まった、
ひとりの投資家の記録。
試行錯誤を繰り返しながら
やがて1億円へと辿り着くまでの、
相場の軌跡である。
投資遍歴【第二章】
―崩壊の音を聞いた日―
2005年から始めた株式投資。
200万円の資金からスタートするも、
すぐに”ライブドアショック”に遭遇。
「相場の恐ろしい横顔」を見ることになる。
そしてその後の、新興市場の長い低迷期。
もがき続ける中で
じわじわと資金は減っていき、
そして…
“リーマンショック”という
最大の試練を迎えることとなる。
負の連鎖のはじまり
2007年の夏。
アメリカから届いたこのニュースが、
少しずつ市場の空気を
変えていったのを覚えている。
「サブプライムローンの焦げ付き」
当初はまだ身近な事ではなく、
ただ、遠い国の出来事のように
聞こえていた。
だが、
それはやがて
世界中の相場を巻き込む、
“負の連鎖の始まり”だった。
サブプライムローンによる金融危機
「サブプライムローン」とは、
アメリカの低所得者向けの
”高金利の住宅ローン”のことで、
当時はほとんど無審査で貸し出され、
住宅バブルの勢いに乗って
拡大されていた。
しかし、金利の上昇に伴って
住宅バブルが崩壊し…
転売ができなくなったことで、
ローンの滞納者が急増。
回収不能となった債権が
山のように積み上がり…
多くの金融機関が、損失を抱えた。
リーマン・ブラザーズの破綻
そして、2008年9月。
米国第4位の投資銀行である
リーマン・ブラザーズが、
64兆円の負債を抱えて、破綻した。
巨塔が音を立てて崩れ落ちたという
ニュースを見た瞬間、
胸の奥が凍るように、
冷たくなったのを覚えている。
まさか歴史の教科書に載る出来事を
リアルタイムで目にすることになるとは、
思ってもいなかった。
2007年 − 再挑戦の年
ここからは、私個人の
当時の状況を綴りたいと思う。
2007年。
ライブドアショックや
新興市場の暴落に巻き込まれ、
深い傷を負った年の翌年。
まだ傷は癒えてはいなかったが、
仕事が落ち着いてきた事もあり…
少しお休みしていた相場に
再び戻ることにした。
方針は、
デイトレードはやめて、
スイングトレード中心へと変更。
デイトレードは、
瞬間的な判断力と、瞬発力が
必要とされる世界。
「自分の能力では
デイトレでは勝ち続けられない」
…それを痛感していたからだ。
生き残るためのルール
「損切りルール」
「ポジションサイズの制限」
「追加入金の禁止」
当時の自分なりの
“生き残るためのルール”を守って、
取引を行ってはいた。
それでも…
激しい下落相場の中で、
勝ち続けるのは難しかった。
光と影
唯一の大勝は、
IPOのフルスピードという銘柄。
上場時の上昇に乗り、
50万円の利益を得た。
けれど、その光の時間も、
長くは続かなかった。
次に取引をした
MICメディカルという銘柄で
同じくらいの損失を出してしまい、
結局振り出しへ。
当初200万円あった資金は、
気づけば100万円にまで減少していた。
その頃は、相場に対して、
心の底から疲れてしまっていた。
2008年−嵐の外で見ていた崩壊
2008年は長男が誕生した事や、
2年前に開業した
税理士事務所が軌道に乗り
本社の移転などで忙しく、
仕事と家庭に追われ、
相場と向き合う余裕は、ほとんどなかった。
そして、
じわじわと資金は減っていき…
当初の200万円は、
最終的には70万円ほどにまで
減少していたように記憶している。
その頃、ニュースで流れる
“リーマンブラザーズ破綻”の映像が
まるで…
世界の終わりを告げる鐘のように、
響いていた。
ニューヨークダウが
マイナス777ドルをつけ、
先物取引がサーキットブレーカーを発動し
相場が地獄絵図と化していた
あの日は・・
ノーポジションの状態で、
ただ静かに…画面を見つめていた。
あの時に、大きなポジションを
持っていなかった事は、
不幸中の幸いだったのだと思う。
崩壊の後
2008年10月。
日経平均株価 6,994円。
マザーズ指数 255ポイント。
市場が金融システムの崩壊を
折り込みに行き、
大半の投資家が、
壊滅的な打撃を受けたその時。
…市場は、静かに、底を打った。
そして数年後…
日本市場には追い風が吹き、
アベノミクスと呼ばれる、
大相場を繰り広げることとなる。
私自身の投資成績も
そこからようやく息を吹き返し、
2009年からは
16年連続でプラスの成績となるのだが…
それは、もう少し先のお話。
――続きはまた、次章で。
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