ヒモニートから税理士へ【第4話】
– 見守られながら、前に進めた日 –
これは、社会のどこにも属さなかった20歳の私が、
税理士になるまでの、再生の物語。
先日、ふいに
彼女が何気ない調子で言った、この言葉。
「ねぇ……私、
簿記3級の資格を取ろうと思うんだけどさ」
そのときの彼女は、
問いかけるというよりも、
そっと道を差し出すような、
そんな目をしていた。
彼は驚きながらも、
少し考え事をしたのち、うなずいた。
「……やってみようかな」
ほどなくして、
通信講座の簿記3級コースの
教材が入った、
思っていたよりも大きな箱が届く。
テキストを開くと、
そこには、
見慣れない言葉が並んでいた。
「仕訳、貸方、借方」
「貸借対照表」
お店で何が売れて、
いくら儲かって、
どれだけの財産が残っているのか。
それが数字で整理され、
ノートを経て、
一枚の決算書に収まっていく。
…不思議な感覚だった。
社会の外にいるはずの自分が、
ほんの少しだけ、
「社会に触れている」
そんな感覚に出会えたのだった。
しかも、これは、
「経営の記録」。
いつか、もし。
自分の店を持つことがあるなら。
これはきっと、
役に立つ知識に違いない。
まだ曖昧で、
はっきりとした形ではなかったが、
少し前の彼にはなかった
かすかな ”希望のかけら” のようなものが、
心の奥で、静かに
芽を出してきていたのだった。
彼の勉強の場所は、
決まってはいなかった。
机に向かうということは
ほとんどせずに、
ある日は、パチンコ台の前で。
空き時間に参考書をぱらぱらと眺めた。
ある日は、喫茶店の隅の席で。
テキストの数字を追った。
コーヒーの苦味と、
レシートの裏に書いた計算式。
どこかちぐはぐで、
決して立派とは言えない
勉強風景だったのだが…
それでも、少しずつ。
はじめの手掛かりとしての
経営の知識が、身につきはじめていた。
売上、仕入の記録。
減価償却。在庫商品。
“人が働いている場所”
で起こっている取引の勉強は、
彼にとっては、
社会とのつながりを感じられるようで、
安心感を覚えるものでもあった。
そして…
「資格を取ろうと思う」と
はじめに言っていた
彼女はというと、
なぜか、そこまで熱心に
勉強しているようには見えなかった。
テキストを開いても、
すぐに閉じてしまったり。
・・日勤、準夜勤、夜勤。
それだけで、
一日が埋まっていくような日々。
看護師としての大変な仕事の中で、
簿記の学習をするだけの
余力は残っていなかったのだと、
今では、よく分かる。
ただ、そのときは、
なぜ、彼女が真剣に勉強をしないのか、
不思議に思っていたのだった。
でもそのときの
彼女はただ、
少しずつ変わっていく
彼の表情を、
どこか嬉しそうに、眺めていた。
そして、その年の11月。
簿記3級の試験の日がやってきた。
試験会場は静かで、
紙をめくる音と、規則正しい音だけが、
淡々と流れていた。
緊張はしていた。
けれど、
不思議と手は止まらなかった。
最後の設問。
“精算表”を埋めていき、
最後の数字を確認する。
……合っている。
その瞬間、彼は確信した。
「きっと、大丈夫だろう。」
派手な感情はなかった。
ただ、胸の奥で、
何かが静かに動き出したような、
そんな小さな鼓動を、
彼は、たしかに感じ取っていた。
そして、後日。
届いた結果の通知書には…
「合格」
の文字が刻まれていた。
それを見たときは、
大きな喜びよりも先に、
「社会から、少しだけ存在を認められた」
そんな、不思議な安堵感が
あったのを、覚えている。
そして、
同時に届いた
彼女の結果の通知書には…
「不合格」
の文字が、刻まれていた。
ただ、
彼女には、悔しそうな様子や
落ち込んだ気配が、
不思議なほど、感じられなかった。
そして、
机の上に積まれたテキストや、
書き込みの増えたノートを
何も言わずに眺めながら、
嬉しそうに、こう言った。
「よかったね、おめでとう」
ずっと閉じられていた場所に、
ほんの少しだけ、光が差し込んだような。
その日は、そんな少し暖かい、
ある冬の一日だった。
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